カメラなんて
必要なくなっちゃえばいい。
そう言うことに気がついた。
1つ言っておくと、僕は写真が嫌いなわけでも、カメラが嫌いなわけでもない。
好きで好きでしょうがない。
でもね、気づいたんです。
僕がなぜ写真を撮っているかを。
写真で世の中に何を伝えたいのかを。
そして常日頃から言っていますが、写真はあくまでも僕のビジョンを叶えるための一手段でしかないということも。
ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと!
言えずにいた。
「写真が好きです! カメラが好きです! 頑張っている人を撮って笑顔にするのが好きです!!」
僕が言うと、
「ほう、じゃあカメラ一本でやってくんだ?」
相当変人でもない限りみんなこういいます。
でも僕はいいます。
「違います」と。
みんなは思います。
「じゃあ本気じゃないんだね。趣味でやるんだね」と。
それもまた違うというとみんなわからないという顔をする。
僕の頭の中に思い描いている世界を見せてあげることができなくて、
だからどうしようもなくもどかしい。
でも先日とある人と話していて、
その人は自分の為すべきことをすべてこう言いかえた。
「逆説的に」と。
この言葉が僕の中ではかなりハマった。
僕が写真を通して伝えたいこと。
それは
”写真とはその人も気づいていない素敵を切り取り口下手な僕の代わりに客観的にそのままの事実を伝えることができるツールである”
ということに他ならない。
僕は写真で双方向のコミュニケーションを取っているのだ。
僕はこの「ファインダーを通した双方向のコミュニケーション」を広めたい。
ある人は言った。
「笑えといつも言われるけど笑えないんです」
その人は笑顔じゃない方が映えるのに。
「自分に自信がないんです」
笑ってる顔はとっても素敵なのに。
モデルのこういう悩みとか自信のなさって、もちろん本人に原因があることもあるけど、多くの場合はカメラマンが無能なのだ。
その人の本当の部分を見ないで自分のステキを押し付ける。
ファインダーを通して被写体を見てるつもりで、自分の芸術性を押し付けるだけ。
なぜ技術も、経験も、機材もあるのに。
そんなマスターベーションみたいな撮影しかできないのだろうか。
写真で語り掛けて会話ができないのだろうか。
僕が写真を通して実現する社会は、
1人でも多くのカメラマンが双方向のコミュニケーションをとれるような写真を撮影できる人間を増やすことだ。
それによって自分のステキに気づく男女があふれる。
笑顔が生まれる。
それに満ちたとき、双方向のコミュニケーションのためのカメラが【必要なくなる】。
つまり僕のカメラは必要なくなる。
その時にはお互いがお互いのステキを発見できる人間ばかりになっているからだ。
そんなフィルター必要なくなるからだ。
その土台を築くために僕は今カメラを持っているのだろう。
これが僕のカメラが手段だという意味だ。
僕は手段としてのカメラなんていらなくなるような世の中を目指して、
これをやり続けるのだ。
あーーーーー
なんて単純なんだろう。
逆説的に物事を考えるとその本質がわかるような気がした。
ではでは、
今日のはこの辺で。
詳しい話は会ったきにでもしましょう。
おしまい。
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