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エンディングフォトとは「生きる」を宣言する写真である

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エンディングフォトとは「生きる」を宣言する写真である

ンディングフォトについて

 

皆さんはエンディングフォトという言葉をご存知でしょうか?
定義に関して申しますと、人はいつ死ぬのか分かりません。

 

その時に今一番自分が輝ている瞬間を写真におさめて、
それを葬式で使ってもらう。そういう用途で使われます。

 

でも、果たしてそれだけでしょうか?

 

僕はこの言葉がとても尊く、もっとも強く皆が、
年齢を関係なく考えるべき話題だと、そう思います。

 

なぜでしょうか?
今日はエンディングフォトに関する僕の考察を書きます。
そして一つだけ強く強く願うのは、

 

この話題をどうか”他人事”として俯瞰しないでください。
明らかに、すぐにでも関係するかもしれない。これは”自分事”です。

 

よろしくお願いします!!!
=目次=

1、エンディングフォトとは?

2、必要だと考える理由

2-1、こども

2-2、祖母

3、写真は何を写すのか?

4、写真にお金がかかる理由

5、エンディングフォトに年齢は関係ない理由

 

 

 

1、エンディングフォトとは?

エンディングフォトとは何か?

 

最近ブームと言っていいのか分かりませんが、

エンディングノートというものをご存知でしょうか?

 

エンディング‐ノート

《〈和〉ending+note》人生の終盤に起こりうる万一の事態に備えて、治療や介護、葬儀などについての自分の希望や、家族への伝言、連絡すべき知人のリストなどを記しておくノート。
[補説]遺言状と異なり、法的な拘束力はない。

           ―コトバンクより引用―

 

自分の最後を考えたときに、
自分が一番輝く瞬間を残したい。

 

それを仏壇に飾っておきたい。
そういう写真を撮る事を指します。

 

言葉を変えると”終活写真”や”遺影写真”というものと同義です。

2、必要だと考える理由

これを読む人の中で少なからずいる方の言葉をまずは代弁しておきたいと思います。
「そんな不謹慎な!」
「縁起でもないこと言うな!」
「まだ元気だし……」
「早く死んでほしいって思われるみたいで嫌だ」

いかがですか?

 

恐らくこういう考え方の人いますよね。
なのでまず断言しておきたいと思います。

 

その考えは大きな間違いです。

そしてその時が来た時に「間違いなく後悔の涙」を流すでしょう。
僕は90年生まれの25歳です。
そんな若造がなんでそんなことを声を大にして言うのか。
色々なエピソードがありますが、

その中でも影響の大きかった2つのエピソードを紹介したいと思います。

2-1、こども

今の僕しか知らない人は絶対に知らない顔ですが、
僕は子供のころとても

人見知り」で

自分を殺したいほど嫌い」でした。

なぜならば、僕は半年ほどいじめを受けていたことがあるからです。
ご存知の方はよく知っていると思います。
この世で一番つらいことは「自分がいないこと」です。
自分がいなくて、自分が空気みたいで、
あたかもいないように扱われる。

 

つまりシカトされるってこと。

完全に無関心として扱われることの恐怖をその時に知りました。
親にも打ち明けられず、
その時毎日のように考えていたことは

 

「どうやったら死ねるのかな?」
「死んだらこの苦しみからも逃げられるんだな」

 

ってことでした。
死にたい。
生きるって何だ。
なんで生きているのだ。
なんで僕はこんな辛い現実を生きなければ行けないんだ。
早く上がってしまいたい。
そういう毎日でした。

そんな時に転機がありました。
母がそれを気づいてしまったんです。

 

「気づいてあげられなくてごめんね」

 

と母は泣きました。

僕はその時に初めて理解したんです。

 

あぁ、僕は死んじゃいけない人間なんだ」って。

2-2、祖母

 

母方の祖母が東京に住んでいました。
小さいころから僕は長男だし、可愛がられていたと思います。

 

でも、僕はそんな祖母をあまり好きじゃなかったんです。
それは、マイナスなことしか言わないし、
それこそ昔の理想をそのまま僕に強要するから。

 

いい学校に行き、良い会社に入れば、安泰なんだから」と。

僕はそんな祖母が好きじゃなかった。

僕のセルフイメージに負の印象を刷り込ませるからです。
母はいつも言っていました。
「おばあちゃんの遺影の写真撮ってあげてね」
「はいはい、そのうちね」と僕はいつも返しました。

正直、僕はあまり撮る気が無かったんでしょう。

 

重い機材を持って行くことにすら、少し抵抗を覚えていたくらいですから。

 

でもね、その日は突然来たんです。

 

僕が帰ったら家族は誰もいませんでした。
どっか買い物でも行ったんだろうか呂思って、
僕は録画したテレビを見ていました。

やがて家族が帰って来て、ぼそりと言ったんです。

 

「おばあちゃんな、死んだよ」
「え?」
僕はそう言う冗談よくないって怒ろうとしたけど、
あんまりに悲しそうな顔をして言うから、
それが現実なんだって知りました。
確かに、あの時に、僕は写真を撮ってあげなかった。
だけど、その前に撮ってあげてたなら、
なんか違ったのかなって。

僕は何のために写真を撮ってたんだろうってわからなくなって、
身内一人、写真で幸せにできなくて、

 

何が”人が好き”だよ?
何が”綺麗を写す”だよ?

下らねえ。ああ、下らねえ!!!!
命を切り取り、そこに存在を残していくのが写真なのに。
僕はそれを出来なかった。

 

後悔だけが残ったんです。

僕は自分が許せませんでした。

 

3、写真は何を写すのか?

 

写真って何で撮るんでしょうね。
写真は何を写すのでしょうか。
僕は思います。写真は何を写すのか。
良くも悪くもその人の生き様をありありと映し出すのが写真です。
その人の魂の在りかをブックマークするのが写真です。
写真とはとても尊いもので、
写真とは本当に力を持っているものだ。
だから写真で何を写すのか。
僕は汚くたっていい。
その人の”今生きている証拠”を写していきたい。
ずっと納めていきたい。
僕がその人が確かに生きたんだって、魂の証人になりたいと思った。
僕はテーマが女性を写すことですが、
それでもやはり、人を写したいと思うのは、

そう言う理由があるからです。

4、写真にお金がかかる理由

写真って高いと思いますか?
例えば僕ならエンディングフォトに関しては、
50000円から受けています。

 

あなたに聞きたいです。
その50000円は高いですか?
それとも安いですか?
高いと思ったあなたへ。
なぜそれを高いと感じましたか?

安いと思ったあなたへ。
なぜそれを安いと感じましたか?

 

大きな意味でいうところの、写真の意味は、
「質」というものは存在しないのでしょう。

 

ですが、

狭義の意味で、僕は写真に「質」は存在すると思います。

 

ただ撮った風景と、
イベントの時に切り取ったものと、
飲み会の時に撮った写真と、
家族と撮った写真と、

どれも”あなた”であることは変わらないかもしれない。
でも、僕がそれを撮るときに、一番重要なのは1つだけだ。

 

「この人はどうやって生きてきた人なのだろう」

 

ということだ。

 

「この人は人生を通して何を伝えたいんだろう」

ってことだ。
それを向き合って、時には意見を交わしながら、
その2時間に命を懸けて僕は写真を撮る。

 

そこに意味がないわけない。
その写真はあなたの生きた証です。

 

それを本気で撮った時に、それは決して安いものじゃないと思う。
だって、アナタと僕の魂の作品だからです。
それにお金を全く払えないというのは、
それはすなわち、自分の価値をそこにおいてしまっていることになる。

 

僕は決して人の命は軽くないと思うから。
だから、この値段でも胸を張って生きて行ける。
僕の伝えたい写真はそういうもので、
そういうものを本気で撮りたいという人とだけ、
仕事が出来ればそれでいい、思うのです。
写真】にお金を払わないでください。
行為】【方向性】に価値を感じてみてください。

 

そうすると絶対に後悔しない買い物になりますから。

 

5、エンディングフォトに年齢は関係ない理由

エンディングフォトは”今一番の自分”を撮影することで、
その最後を飾る準備をしようというものですよね。
でも、僕は少しだけ主旨が違うなぁと思います。

エンディングフォトは誰が撮るんでしょうか?
誰に必要でしょうか?
お年寄りでしょうか?
病気の人でしょうか?
断言します。
絶対にそれは違うと。
エンディングフォトは、今を本気で生きている人であれば、
誰しもの必要なものです。

 

エンディングフォトとは”終わるため”に撮るんじゃない。
”生きるために”撮るんです。

 

人生を向き合って、
自分の生きる意味を考えて、
僕は僕だって立ち位置を決めて、
生きるんだって覚悟を決めるために。

 

自分に対する宣言のようなものです。

その意味を込めて、写真と向きあう。
そこから生まれたものって、どういうものかというと、
死ぬために綺麗な写真を撮ろう」じゃなくて、
生きるために生きることを決めた」写真になるんです。
だからこそ思うんです。
これって別にお年寄りだから必要とか、
そういう問題じゃない。
3.11で皆さんは分かったはずです。

僕達を取り巻いている【当たり前】は当たり前じゃないってこと。
日常こそが尊く、日常こそが何よりも守ることが難しいということを。
命は有限です。
命は簡単なことで壊れてしまうものです。
でも生きるという意思は、何よりも強いです。
それは時に、お金すら権力すら、不可能すら跳ね返す力を持っているものです。
当たり前じゃない人生だから。
今日】どう生きて行くかを考えて、
】自分が生きている意味を考えて、
未来】をどう彩っていきたいかと本気で自分と向き合って考えることが必要なんだと思います。

 

それは恐らく辛いことでしょう。
なぜかというと、いかに自分は無力で、
考えないで生きて来たかということに気づいてしまうからです。
でも、気づかない人生よりも、
そこに気づいてからの人生は素晴らしい世界が広がっています。
最後の最後まで生きて、生き抜いて、
俺は、生きたぞ!!!!!」という人生になるからです。
その証明の写真がエンディングフォトなのだと、僕は考えます。

 

皆さん、今一度自分の人生について考えてみてください。
なぜ僕らはこの世に生を受けたのでしょうか。
それを自分で決めて、

定めていくことが「自分の人生を生きる」ということではないでしょうか?

 

エンディングフォトには

一般でいう「終活」や「遺影写真」以上のポテンシャルがあると、

私は考えています。

 

ではでは!

何かを考えるきっかけになっていたら幸いです^^

 

写真のご相談は岡本まで!

失礼いたします!

 

ブログ内の写真を無断で使用することを禁止します

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