もしもカメラが無かったら
僕はいつものようにカメラバッグと自分のバッグを持って外に出た。
クライアントの撮影日だったからだ。
撮影の後に人と会う予定もあったが、結局来なかった。
まぁ予感はしてたし。もうそういうことじゃないなってわかってるから、1時間ちょっとだけ待って家路についた。
肩に確かな重みがあって、その中に無骨なカメラが収納されている。
ふと思った。
僕に「もしカメラが無かったら」。
僕はどうしていたのだろう、と。
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僕とカメラの出会いは「130万画素」である。
当時使っていたPHSのカメラで、僕は写真に触れていた。
夕日を撮るのが好きだった。
きちんと露光するにもコツがいるし、じっと動かずに待つ必要があった。
余程暇だったから出来たんだろうと思う。
「写るんです」を除けば、これが写真との最初の出会いだった。
それからしばらくして、高尾山でアルバイトが始まる。
リフトの中腹で待って写真を撮るバイトだ。
最初は初心者にも関わらず、忙しさにかまけてあまり教えてもらえなかった。
でも専門用語が飛び交うから、覚えるしかなかった。
6年間続けることで、僕の基礎はできていった。
3番目の触れ合いは大学2年のとき。
Amazonで型落ちのEOS KISS X3を買った。ダブルズームキット。名前がかっこいいからこれにした。
最初は撮る対象がわからずに、飲み会や旅行ばかり撮っていた。
そして大学を卒業し、新卒でADをやり、それを諦めた8月。
僕は迷っていた。
「さて何をやろう」
就活を続けるのは違う気がした。同じことを繰り返している気がした。
だから思った。「好きなことをして生きよう」と。
それが4番目の、そして一番長い写真との付き合いの始まりだった。
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ここまでがダイジェスト。感情は抜きで書いてみた。
気づけば写真と触れ合って、もう18年ほどになる。
学校に行ったわけでも、スタジオで経験を積んだわけでもないが、自分なりに触れにいってきた。
写真から何を得て、何を学んだろうと考えた末に、3つ思い浮かんだので書いてみる。
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人の心を学んだ
写真は人の心を写す。
馬鹿だと思うだろうか。撮れるわけないだろうと思うだろうか。
確かに思い込みなのかもしれない。
でも、その人のありのままを第三者の目線で捉えられるのが、写真という代物だと思っている。
撮影者の人間性を通して、まっすぐその人のことを捉えて離さないのだ。
その人が何に悩み、何を得たいのか。
どういう人間になりたくて、何が本当に「素敵」なのか。
写真はそういったものを映し出す。
僕は写真を通して初めて、ちゃんと人と向き合った。
人のトラウマを知ったし、人の誇りを知った。
人の美しさも、人の醜さも知った。
写真を通すことで、僕はありのままのその人と対峙することができた。
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たくさんの友人ができた
写真をやったことで、交友関係が広がった。
アグレッシブに動いていくことで、どんどん僕の中の「世界」は広がった。
最初はほんの小さな世界が、いつの間にか友達の友達も僕のことを知っているくらいになった。
そしてその多くの人たちが、僕のことを支えてくれた。
落ち込んだときに真っ先に言葉をくれたのも、カメラを通して知り合った人たちが多かった。
僕はカメラから世界を見る。
そしてカメラを通じた世界から、たくさんの友人を得た。
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ライフワークを知った
僕はいつも自分のことをこう形容する。
「もしも僕の魂にアイコンがあったとするならば、それはきっとカメラの形をしている」と。
それくらい、僕にとってカメラはかけがえのないものだ。
これを通じて伝えたいことは、世の中で頑張っているすべての人へ、
「あなたは本当に綺麗なんだ」と伝えること。
僕の大切な人へ、「僕に好きになることを許してくれてありがとう」と伝えていくこと。
目の前の、僕に関わってくれた人たちとのご縁を紡ぎたい。
それが写真という活動ならば、僕の生きる意味は写真である。
死ぬまで、一生続けること。それが僕のカメラだ。
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もしもカメラが無かったら
多分僕は、死んでいるだろうと思う。
意味もなく使命もなく、ただ時間に流されて生きていると思う。
カメラとの出会いが、僕にさまざまな出会いをもたらしてくれた。
愛を教えてくれた。
ファインダーを通して愛おしい人を撮るときの至高を教えてくれた。
「出逢えてよかった」と、心から感謝したい。
僕にとってカメラは命だ。心臓だと思う。
大好きな人だけを撮りたいから、僕は今を頑張るんだと思う。
本当に、カメラに出会えてよかった。
そんなことをふと、カメラの重さを感じながら考えたのであった。
特にオチは無い。
おしまい。