僕は写真を辞めるために写真を撮っていることに気づいた
ひとつだけ言っておくと、僕は写真が嫌いなわけじゃないし、カメラが嫌いなわけでもない。
好きで好きでしょうがない。
—
でも、気づいたんです。
僕がなぜ写真を撮っているのかを。
写真で世の中に何を伝えたいのかを。
そして、写真はあくまでも僕のビジョンを叶えるための、一手段でしかないということを。
—
ずっと、うまく言えずにいました。
「写真が好きです。カメラが好きです。頑張っている人を撮って笑顔にするのが好きです」
そう言うと、たいてい返ってくる言葉があります。
「ほう、じゃあカメラ一本でやってくんだ?」
—
僕は答えます。「違います」と。
すると今度はこうなる。
「じゃあ本気じゃないんだね。趣味でやるんだね」
それもまた違う、というとみんなわからないという顔をする。
頭の中に描いている世界を見せてあげられなくて、どうにももどかしかった。
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そんなとき、ある人との会話でひとつの言葉に出会いました。
「逆説的に」
その人は、自分のなすべきことをすべてその言葉に置き換えていた。
なんか、これハマるな、と思ったんです。
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僕が写真を通して伝えたいこと。
それは——
「写真とは、その人自身も気づいていない素敵を切り取り、口下手な僕の代わりに、客観的にそのままの事実を伝えることができるツールである」
ということです。
つまり僕は、写真で双方向のコミュニケーションを取っているのだと思っています。
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「笑えといつも言われるけど、笑えないんです」
そう言う人が、実は笑顔じゃない方がずっと映えることがある。
「自分に自信がないんです」
そう言う人の笑っている顔が、とっても素敵なことがある。
—
あくまでも僕の持論ですが——
こういうすれ違いが起きるとき、多くの場合はカメラマン側に原因があると思っています。
その人の本当の部分を見ないで、自分の「ステキ」を押しつけてしまう。
ファインダーを通して被写体を見ているつもりで、自分の芸術性を出すことだけに夢中になってしまう。
技術も経験も機材もあるのに、なぜ写真で語りかけることができないのだろう、と思うことがあります。
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僕が写真を通して目指している社会は、ひとつです。
「ファインダーを通した双方向のコミュニケーション」ができる人間が増えること。
自分のステキに気づく人があふれて、笑顔が生まれる。
そういう社会になったとき、双方向のコミュニケーションのための道具としてのカメラは、【必要なくなる】。
—
つまり、僕のカメラも必要なくなる。
そのときには、みんながお互いのステキを発見できるようになっているから。
フィルターなんて要らなくなっているから。
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その土台を築くために、今カメラを持っているんだろうと思います。
これが、写真はあくまで手段だ、という意味です。
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なんて単純なんだろう。
逆説的に物事を考えると、その本質が見えてくるような気がしました。
詳しい話は、会ったときにでもしましょう。